水戸徳川古文書●嘉永6年 水席老君御内密書(水府老公御密書) 水戸烈公徳川斉昭 海防愚存 9丁 230304

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表紙は、常総史談会の大野理事長が作成した物で保存されていたようです。
中の文書は斉昭公の自筆ではないかと思います。
あの独特な筆さばきを感じられますが、というよりはしっかりとした文字で主張に自信を持って丁寧に書いておられると思います。
ただ写本もあるようですので写真をよく見てご判断下さい。

多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして、故郷に帰る事ができれば大変嬉しいです。

サイズは17.1×23.8×0.3㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるシミヤケと若干の虫食いがあります。
発送は追跡可能なクリックポストを予定しています。


徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。最後の将軍徳川慶喜の実父である
嘉永6年(1853年6月マシュー・ペリー浦賀来航に際して、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭はペリー暗殺も含む強硬な攘夷論を主張した[9]。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し[注釈 5]、また江戸の石川島で建造した洋式軍艦「旭日丸」を幕府に差し出した。安政2年(1855年)には那珂湊反射炉が完成、鉄製大砲を鋳造した[10]。出典:ウィキペディア

嘉永6年(1853年)に、ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻(黒船)は、久里浜現れ、江戸湾浦賀に来港、大統領親書を幕府側に提出した。翌春にその親書に対する返書を受け取りたいと言い残して、日本を離れたあと、幕府閣僚はその対応に追われたのであった。その幕閣のなかでは、黒船来航が当時未曾有の難事として、侃侃諤々の和戦論議が繰り拡げられたが、その収拾に老中首座の阿部正弘が悩み、窮余の策として徳川斉昭を海防掛参与として、江戸城へ登城させたのである。
その時、阿部正弘に提出した建言書が、『海防愚存』である。出典:水戸は天下の魁


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